ひのきスピーカー日誌【0011回】は、京都からお届けします!
今日は日本庭園で有名な京都 大原地区に行ってきまして、そこで受けた印象をもとにお話したいと思います。
(写真は宝泉院)
作り変えの美
日本庭園の基本的なモチーフは、哲学的な世界観だったり、広大な山水(風景)だったりすることが多いのですが、
そうした概念を巧みに庭に組み込んでいるんですよね。
「枯山水」はその代表で、砂で水のあり様を表現していると言われます。
水をそのまま持ってこれない街中では、この枯山水が多いかもしれません。
面白いのが、それが単なる代替手段でなく、巧みな技をもって作られることで、
新しい価値を生み出していること。
こうした「あえてリアルとは違う所で表現する」というやり方は、
盆栽だったり生花だったり、さらには漫画やアニメーションだったりと、
何かと日本のお家芸なのではないかと思っています。
これはオーディオにも通ずるところがあるのではないでしょうか。
生演奏と同じ音をオーディオで再現するのは素晴らしい技術ですが、
それとは別に、限られた条件(部屋の大きさや、音量)の中で、
いかに「音」という概念を表現するかも、とても大切なアプローチだと思います。
既に「盆栽オーディオ」「箱庭オーディオ」という言葉がありますが、
それが単なる縮小に留まらずに、独自の可能性・文化を育む土壌になるのではと考えています。
「和の感性」を研ぎ澄まして行く先に、
日本文化らしいオーディオ像が広がっているのではないかと思っています。
普遍性
(実光院)
日本庭園の文化は長く、数百年もしくはそれ以上の歴史があります。
長い年月と共に多少の変化はあれど、今もなお心惹かれる存在であるのは凄いことだと思います。
それに対して、オーディオはどうなのか。
ビジネスとして捉えるとオーディオ界はまさに千変万化。
DVDと共に注目された「マルチチャンネルオーディオ」は話題になることも少なくなり、
最近生まれた「ハイレゾ」すら新鮮味は少なくなりました。
技術や科学として捉えるのならば、常に進化があるべきで、
スピーカーの基礎技術が100年近く変わっていないことを問題視することもあります。
しかし、オーディオを「音を吟じる行い」として捉えるとどうでしょう。
自然にある音を、自身の力で再生(再構成)するのは、絵画に近い行いとも言えるかもしれません。
オーディオマニアはいつの時代も、自身の求める音と再生音のギャップに喜怒哀楽してきました。
100年近く前のWEの技術者だって、そうだったはずです。
時代が変われば、土台や背景が変わるのは間違いありません。
江戸時代の日本庭園は、重機を使って整地したり、インスタで拡散したりはしなかったはずです。
時代が移りゆく中で、変わるべきところは変わり、
変わることのない魅力がしっかりと継承されてきたのは、
その文化に尽力してきた方々の努力の賜物でしょう。
私はオーディフィルとして、スピーカーを製造販売する立場になりましたが、
オーディオの魅力をいかに普遍的なものとして解釈し、「今」に発信していくかは考えることがあります。
これからもオーディオが普遍的な魅力を放ち続けられることを、心から願うと共に、
精一杯頑張って参りたいと思います。
今日は日本庭園で有名な京都 大原地区に行ってきまして、そこで受けた印象をもとにお話したいと思います。
(写真は宝泉院)
作り変えの美
日本庭園の基本的なモチーフは、哲学的な世界観だったり、広大な山水(風景)だったりすることが多いのですが、
そうした概念を巧みに庭に組み込んでいるんですよね。
「枯山水」はその代表で、砂で水のあり様を表現していると言われます。
水をそのまま持ってこれない街中では、この枯山水が多いかもしれません。
面白いのが、それが単なる代替手段でなく、巧みな技をもって作られることで、
新しい価値を生み出していること。
こうした「あえてリアルとは違う所で表現する」というやり方は、
盆栽だったり生花だったり、さらには漫画やアニメーションだったりと、
何かと日本のお家芸なのではないかと思っています。
これはオーディオにも通ずるところがあるのではないでしょうか。
生演奏と同じ音をオーディオで再現するのは素晴らしい技術ですが、
それとは別に、限られた条件(部屋の大きさや、音量)の中で、
いかに「音」という概念を表現するかも、とても大切なアプローチだと思います。
既に「盆栽オーディオ」「箱庭オーディオ」という言葉がありますが、
それが単なる縮小に留まらずに、独自の可能性・文化を育む土壌になるのではと考えています。
「和の感性」を研ぎ澄まして行く先に、
日本文化らしいオーディオ像が広がっているのではないかと思っています。
普遍性
(実光院)
日本庭園の文化は長く、数百年もしくはそれ以上の歴史があります。
長い年月と共に多少の変化はあれど、今もなお心惹かれる存在であるのは凄いことだと思います。
それに対して、オーディオはどうなのか。
ビジネスとして捉えるとオーディオ界はまさに千変万化。
DVDと共に注目された「マルチチャンネルオーディオ」は話題になることも少なくなり、
最近生まれた「ハイレゾ」すら新鮮味は少なくなりました。
技術や科学として捉えるのならば、常に進化があるべきで、
スピーカーの基礎技術が100年近く変わっていないことを問題視することもあります。
しかし、オーディオを「音を吟じる行い」として捉えるとどうでしょう。
自然にある音を、自身の力で再生(再構成)するのは、絵画に近い行いとも言えるかもしれません。
オーディオマニアはいつの時代も、自身の求める音と再生音のギャップに喜怒哀楽してきました。
100年近く前のWEの技術者だって、そうだったはずです。
時代が変われば、土台や背景が変わるのは間違いありません。
江戸時代の日本庭園は、重機を使って整地したり、インスタで拡散したりはしなかったはずです。
時代が移りゆく中で、変わるべきところは変わり、
変わることのない魅力がしっかりと継承されてきたのは、
その文化に尽力してきた方々の努力の賜物でしょう。
私はオーディフィルとして、スピーカーを製造販売する立場になりましたが、
オーディオの魅力をいかに普遍的なものとして解釈し、「今」に発信していくかは考えることがあります。
これからもオーディオが普遍的な魅力を放ち続けられることを、心から願うと共に、
精一杯頑張って参りたいと思います。